
《第16話》
上司や先輩からの極端に愛情溢れるしごきに耐え、努力と根性の日々を送る毎日。
それなのに、成績はなかなか芽が出なかった。
全く売れなかった訳ではない。時に、それなりの数字を出しそうになったこともあった。
しかし、その会社における、実績と呼べる様な目標達成のラインにはほど遠かった。
半年も経つと、常に下位にいるヤツというレッテルが貼られ、逆の意味で目立って来る。
始めの数ヶ月は、「大丈夫」と励ましてくれた先輩からも、
「素直ないいヤツだし、誰よりも頑張っているんだけど……」
と、好意的な目ではあったが、いつまでもうだつが上がらない、可哀想なヤツだと思われる様になった。
後輩もどんどん入社し、私の成績をどんどん抜いて行く。
その頃、山川本部長が、成績の悪い社員にはっぱをかけるため、サッカーJリーグブームに便乗して、成績の書かれたホワイトボードに、イエローカードやレッドカードを付けた。
私は、レッドカードの常習犯だった。
その頃の私は、よく辞める決意をしなかったものだと思う。
本音では、ネガティブな感情に押し潰されそうな自分を、プラス思考で何とかフタをして保っていた。
私を引き止めていたものは何だったのか、当時の日記を読み返し、その頃の気持ちを思い出しても、その明確な理由を見つけることは出来ない。
しかし、自分が扱っていた成功哲学の商品への絶対的信頼と、「それを扱う自分が成功できない訳が無い」という確固たる想いがあった。
もっと正確に言えば、「絶対に成功してやる」という想いと、当時、徹底的に勉強していたプラス思考が深く定着し、「ここで成功する」以外の結果の可能性を、受け入れなくさせていたようにも思う。
また、自分自身へのプライドと親を安心させるため、そして、当時の彼女を絶対に幸せにするためにも、やっと出逢った、自分が自信を持って人に勧められるこの商品で、絶対に成功しなければならないと思っていた。
以前の様に、目の前の現実から逃避する人生はまっぴらだった。
工事現場でアルバイトをしながら味わった、何も無い、情けない自分にはもう二度と戻りたくない、という強い気持ちもあった。
しかし見方を変えれば、最初の会社を辞めた時、中途半端に次の会社を選ばず、あそこまでのどん底生活を味わったお陰で、この営業時代に苦しい想いをしても、気持ちが折れない強い心の自分が形成されていたのだ。
どんなに成績が上がらなくても、厳しくしごかれても、手のひらにマジックで目標数字を大きく書き、通勤時間もずっとイメージトレーニングをした。
折角お客様と電話が通じても会話が続かないため、成績の良い先輩の営業トークを盗もうと、先輩の電話中に後ろに立って必死にトークを書き写した。
そのノートを何度も何度も読み返し、電話する時にも手から離さず、ほとんど読みあげるように話した。
ちなみに、そのトークマニュアルのノートは、今でも私の手元に残っている。
あまりに繰り返しページをめくったため、角は落ち、用紙が毛羽立ってフワフワになり、閉じてもピッタリと紙が納まらないほどだ。

先輩のセールストークを書き写したノート
この当時、会社から渡される顧客名簿は、成績上位者には、比較的、可能性の高いお客様の名簿を渡された。
会社としても当然、お客様に正しく商品をご案内出来る能力のある人に対応してもらいたいから、当たり前だ。
新人は一番条件の悪い名簿を渡され、だからこそ一流の営業マンとして鍛えられる。
ここで這い上がってくれば、その後はある程度安定に近づいて来るのだが、最初でつまずくとマイナスのスパイラルに陥り、ますます抜けられない。
この頃の私を見て、社内で交わされていた会話があった。
「田久保は、真面目であんなに頑張ってるのに、どうして成績上がらないんだろう?」
「彼は、ユーザー上がりだからね」
「ああ、なるほど……」
私が入った電話営業の部署の中には、”ユーザー上がりは売れない”、というジンクスがあった。
ユーザー上がりとはつまり、この会社に入る前に、一般の商品ユーザーの一人として商品を購入し、後に社員になった人のことを指す。
なぜ、ユーザーだとダメなのかと不思議に思うが、確かにその当時、その部署では、「商品」から入社した人と、「会社」に入って商品を知った人とでは、成績に差が出る傾向にあったことは事実だった。
一般的にも営業の世界には、「商品に惚れるな」という言葉があるように、「商品」に思い入れがあり過ぎると、「営業」という仕事に焦点が定まらなくなる人が多いのかも知れない。
しかし、私の本音には、微妙な違和感があった。
私は、この会社で扱っている商品が、自分が心の底から良いと思える商品だからこそ、人に紹介したいと思っていた。
もちろん、私だけではなく他の社員も商品に対する想いは人それぞれにあったはずだ。
でも、私は「自分が好きな商品じゃなければ絶対に売れない」という想いが、他の人より特に強烈だったように思う。
そして、この数年後、私の商品への強い想いこそが、別の形で私の人生に大きな影響を与え、私はまたしても人生を180度転換させる日が来るのだが、
それはまだ、この時には予想すらできない、遠い将来の話だ。
では、なぜ、売れなかったのだろうか。
人は誰でも、「なぜこうなってしまうのだろう?」と思う様な出来事に、遭遇することがあるだろう。
「どうしてこんなことが起こるのか?」
「なぜ、こうなってしまったのか?」
そもそも、私たちが疑問を抱くのは「理解」ができないからだ。
通常、理解とは、自分の過去の経験で知っている範囲のことを指す。
または、自分の肉体の知覚器官で認識できる範囲のことだ。
その領域を超えると、人は「なぜ?」と疑問を抱く。
しかし、例えば人間が肉眼で認識できない、可視光線を超えた領域にも「紫外線」や「赤外線」が事実として存在する。
高い山に登れば視点が変わり、見える範囲も変化する。
真実とは、私たちが認識している範囲だけではないのだ。
もしも、私たちの理解を遥かに凌駕する究極の視点、「宇宙意識」「神の視点」からこの世の事象を見ることが出来たなら、「なぜ」は「そうだ」に変わる。
その視点から全ての物事を見たら、全てが必然であり、「なぜ」ではなく、そうなるべくしてなっているという、事実がそこにあるだけだ。
「なぜ?」「どうして?」と疑問を持つ事は、決して悪い事ではないが、
疑問への答えが見つからない時、得てして人は、その「疑問」を、自分自身や周囲の人、そして事象などを責めるための「道具」にしてしまうことがある。
その「責める」気持ちが、私たちの心に最も良くない影響を与える。
自分の中の究極の視点の存在を認識できると、「今の自分には分からないけど、完璧で必然な流れなんだ」という事実を受け入れられるので、波立った心を、凪の状態に戻すことが出来る。
今になって当時を振り返ると、入社して10ヶ月もの間、これだけ努力しても成績が伸びなかった事実と、それでも自分の心が折れることなくこの仕事を続けられたという事実は、
実は、「神」「宇宙意識」つまり自分本来の姿である「普遍意識」の計らいだったとしか思えない。
一つ一つの点と線が結びつき、大きなオブジェを描く。
そのオブジェは、渦中にいる間は決して見えないだろう。
私は営業で伸び悩んだ当時、神の計らいによって描かれた、大きなオブジェは見えていなかった。
しかし、入社から10ヶ月を過ぎた頃、神のオブジェの片鱗を垣間みるような出来事が起きる。
10ヶ月伸び悩み、それでも辞めなかったことを「そうだったのか」と分かる日が来るのだ。
この頃は苦しくて、何も見えていなかった私だったが、もしかすると、自分が最も必要な場所へ導かれることを無意識に、すでに知っていたのかもしれない。