【『自分探しの旅』を初めから読む】
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「あしたのジョー」
(後半)
「あしたのジョー」のビデオの再生ボタンを繰り返し押さずにはいられない私の行為は、まさに「依存」そのものである。
少し前、コラムの第1回のトピックに、「依存から自立へ」というテーマを掲げた。
(あの記事もそういえば、アニメが主題だった…笑)
ここで、「あれ?田久保さんは、もう依存はしないんじゃなかったの?」という疑問の声が聞こえてきそうだ。
誤解を恐れず、私は申し上げたい。
私は、今でも依存だらけである。
ただしこの依存は、何か特別な人やものに人生を預け、自立を放棄してそこに完全に寄りかかることとは、本質的に違う。
その違いは、依存の対象物を、心の中だけで良いので、一度自分から取り払ってみれば分かる。
確かにその瞬間は、とても寂しい思いをしたり、生き方や生活スタイルを変更せざるを得なくなったり、自分らしさを取り戻すまでに、どこにもギアが噛み合ないような、ニュートラルな状態になって精神的苦痛も味わうかもしれない。
しかし、コラムの第1回に出て来た岡ひろみのように、「生きること」そのものに意味を見いだせなくなるようなことはない。
今回のテーマが、コラムの第1回の「依存」の話となぜ矛盾しないのかと言えば、依存の「質」の問題だからなのだ。
「依存は良くない」と表面的に捉えてしまうと、「依存している自分はダメな人間だ」と自分を責める気持ちが出て来てしまう人もいるだろう。
実は自分を責めるこの行為が、最も良くないのだ。
だから是非、今日の話を読み終えるまで、「依存はいけない事なんだ」と、短絡的に捉えないでいただければと思う。
「依存」を「思い入れのあるもの」と言い換えてもいい。
色々なものに依存をしているからこそ、私は家族を大事に想い、私を助けてくれる仲間に感謝の念が湧き、仕事に情熱を燃やし、趣味に時間を忘れ、行動にパワーが出て、そして人生を謳歌している。
こんな心のことを扱う仕事をしていても、私は決して聖人君子などではない。
(このブログをずっと読んでいただいている方は、そんなこと言わなくても、もうとっくに分かっているだろうが……笑)
そもそも依存は、決して忌み嫌うこものではないのだ。
究極的には自立が理想の姿だが、人生において、依存はある意味、原動力やステップとして必要なものだ。
生きている以上は誰もが肉体を持ち、感情がある。
だから「肉体」や「感情」が無くならない限りは、依存は常に存在するはずなのだ。
「燃え尽き症候群」という言葉がある。
例えば受験で、「東大に合格するぞ!」といった目標を設定したとする。
生活の全てを勉強に捧げ、友達が遊んでいる時間も自分だけは遊ばず、寝る間も惜しんで必死に勉強し、目標を達成する。
ところが、「目標」を達成した瞬間に、燃え尽きてしまう。
「東大に合格すること」が目的で、人生の全てをそこに捧げてしまったから、目標達成の瞬間に目的を失い、どうやって生きていけば良いのか分からなくなる。
生活の全てを勉強に捧げたから、友達もおらず、趣味もない。やりがいが見いだせない。
そして、5月病や、鬱などになってしまう人も多い。
定年退職を迎えた世代の方にも、似た様なことが起こる場合がある。
仕事だけに人生を捧げて来たから、それを失った瞬間に、どうして良いのか分からなくなるのだ。
それこそまさに、「仕事」への依存だ。
真面目な人であればあるほど、特に傾向として男性は職業としての「仕事」と「人生」を重ねてしまう。
すると、「仕事」がなくなった瞬間に、まるで人生を失ったようになってしまう。
本当は、「人生」という物語に様々な職業としての「仕事」というシーンを描かなければいけないのだ。
「仕事」は、人生という物語を面白くするための一つのシーンに過ぎず、仮にそれを失っても、別のシーンを描き続ければ、物語が終わることはない。
大学時代の私は、「プロレスでチャンピオンに輝いている自分」や、「彼女がいる自分」という名の台本に、自分の人生を描いてしまった。
だから物語を見失い、進めなくなってしまったのだ。
人は互いに支え合うもので、依存し合うように出来ている。
人に限らず、目標や仕事に依存することも、とても自然なことだ。
しかし、どんなに命を燃やし、力の限りを捧げても、絶対に燃え尽きることのない「無限なる普遍意識」「神意識」とも言える『本当の自分』が自分のコアに存在している。
このことを知っているかどうかで「依存」の質は全く違ったものになる。
『本当の自分』を自覚しているということは、「究極の自立」の存在である自分を知ることである。
それを知ってさえいれば、魂は微動だにしないまま、世の中の様々なものに依存している自分を俯瞰して楽しむことが出来る。
その究極の自立があれば、目標設定は決して悪いものではない。
「目標」は、達成した瞬間に燃え尽きて終わるものではなく、大いなる川の流れの如き壮大な人生という物語を生きるための「マイルストーン」となり、そこからまた、新たなステージへ向かう事が出来るのだ。
今でも私は、時に目的を見失い、何もやる気が起きない、ニュートラルのような状態に陥ってしまうこともある。
しかし、大学生の頃の自分とは違い、現在の私は「自分の本質」への理解と自覚があるために、「あぁ、今ギアが変わって、自分はまた新たなステージを迎えようとしているんだな」と冷静に自己を見つめることが出来る。
何度見ても、ジョーは最後に、真っ白な灰になって燃え尽きてしまう。
そしてまた私は、何度でも懲りずに第1話のDVDを入れ、再び「再生ボタン」を押してしまう・・・
だがこんな私も、人生の最期を迎える時には、本当の自分の役割を全うし、
最高の肉体の人生を完全燃焼して、燃え尽きて終わりたいと願う。
「自分探しの旅」は“完”ではなく「続く」