「本当の自分」は燃え尽きない〜あしたのジョー〜(前半)

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田久保剛

【『自分探しの旅』を初めから読む】
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●◎○● コラム[心の旅の協力者]●○◎●
– 3 –

「あしたのジョー」
(前半)
私がこの世に誕生した年、伝説の名作漫画「あしたのジョー」の連載が始まった。

そして、その連載から50年が経った2018年、「あしたのジョー・連載開始50周年記念」として、様々な企画イベントが催され盛り上がっている。

その一つは、「あしたのジョー」を原案にした最新のアニメ「メガロボクス」の放送が開始されたこと。

ハッキリ言って、「あしたのジョー」を“原案”にした、と堂々とうたう事は相当な覚悟があったと思われる。

この事については、ナタリーというカルチャーサイトで「メガロボクス」放送記念企画として、芸能人インタビュー記事があり、カズレーサーさんが次ように語っている。

「『あしたのジョー』は史上最高のマンガだ!」って言うぐらいの“「あしたのジョー」原理主義者”の人っていますもんね。そういう人から「どうすんの? 勝手に原案にしてくれちゃって」みたいな感じで言われることもあるかもしれない。そういう人に負けないゴールを迎えてほしいですね。
コミックナタリー記事より引用)

まさに、ここに出てくる、“「あしたのジョー」原理主義者”の一人は私の事で…(^_^;
(熱狂的ファンというより、原理主義者という表現の方がさらに強く感じる…)

このコメントは、私の想いを代弁してくれているのだが、実際の放送が始まり「メガロボクス」は、まさに、その並ならぬ覚悟を感じさせるような概ね高評価の出だしを迎えているようだ。

近未来を舞台に、“ギア”という機械を装着したボクシングというぶっ飛んだ設定に、「わたし ついていけそうにない・・・・」と、早くもそんな感覚もあり、なるべくニュートラルなスタンスで見ようと努力しつつ、どうしても比較視点でみてしまう自分と葛藤しながらも、毎週、結構楽しみに観ている。

もちろん、作品総てを見届けるまで評価を下せないが…

次にイベントだが、「あしたのジョー」の二人の作者である、故 高森朝雄(梶原一騎)さん、そして、ちばてつやさんが選ぶ漫画の名シーンの貴重な原画の数々を中心に展示する、『あしたのジョー展』が、東京スカイツリータウン・ソラマチで開催された。

私は、この情報を知ると同時に、展覧会オリジナル写真付チケットを即購入。

田久保剛/CTPeak

イベントは、この記事を書いている今、公開真っ最中で、実は、この『自分探しの旅』のコラムで、「あしたのジョー」をテーマにした本記事の掲載予定日は、順番からしてだいたい決まっていた。

そして、狙ったわけではないのだが、実は、スケジュールの都合で、この記事を編集している日の丁度前日、この『あしたのジョー展』に行ってきて、この記事を載せるタイミングと偶然重なって驚いている。

この展覧会は、ほとんどの展示が撮影禁止で、最初は「ああ、写真撮れないのか〜」と残念がるほどレアな作品の数々だったが、「あしたのジョー」の生の原画を目の前にして、

その原画から迫ってくる強烈なエネルギーを感じた時、「ああ、カメラ撮影なんかに夢中になってしまったら、こんな波動は感じられない」と思い直したほど、感動の展覧会だった。

ちばてつやさんの、時にはジョーの苦しみを自分に重ね、病気になってしまうほどの魂を込めた描写のエネルギーは本当に魂を揺さぶられたし、

高森朝雄さんは、「巨人の星」ではスポ根を、しかし、「あしたのジョー」は純文学をやりたかった…という言葉の通り、人間の様々な愛情表現の繊細で緻密な描写など、そのこだわりを改めて知って、再読を求める熱い思いを押さえられなかった。

この『あしたのジョー展』の感想をこのまま書き綴るとなると、おそらくどこまでも書き続けてしまうような、溢れる感動と興奮の余韻が今でも残っているのだが、そうなると、本コラムの主旨から外れてしまうので、グッとこらえて、また別に機会に…

このポストカードには飛びつきました(^_^;

* * *

さて、私が「あしたのジョー」を好きになったのは、もちろん、生まれたばかりの連載当時ではなく、小学生だった頃。

当時は、テレビアニメが再放送され、さらにはアニメの映画版も上映され、第二ブームが巻き起こっていた頃。

それ以来の大の「あしたのジョー」ファンで、漫画は当然の事ながら、ジョーや段平が本当に実在するようなベストマッチの声優さんの声でドラマが繰り拡げられる、アニメシリーズが大好きで、今だに、仕事を終えると、DVDでアニメシリーズを2~3話見てから眠りにつくことが良くある。

もう何年も、それを繰り返しているので、一体、何十クール見たのか分からない。

特に、テレビアニメの「あしたのジョー2」が大のお気に入りで、台詞が完全に頭に入っているぐらいだ。

「あしたのジョー2」の最終回の、ラストシーンを見終わった後の虚脱感と言ったら、とても言葉に表すことは出来ない。

そして、この強烈な虚脱感が、空いてしまった穴を埋めるが如く、私をもう一度、第1話から見ずにはいられなくさせるのだ。

これはある種の中毒に近い。

「あしたのジョー」を知らない世代でも、リングのコーナーで微笑むように座る、燃え尽きた矢吹丈の名シーンを見たことがきっとあると思う。

ジョーは青春の全てをボクシングに捧げ、命を燃やし、何一つ悔いを残すことなく、最後はまっ白な灰になるまで燃え尽きてしまう。

まさに、あのラストシーンは、「まっ白な灰になるまで燃え尽きる」という表現の代名詞になるぐらいだ。

ここまで人を惹き付け、虜にしておいて、ジョーは自分だけ、まっ白に燃え尽きてしまうのだからずるい……

憧れと羨望の思いで、多くの人がジョーの生きザマに魅せられる。

ところで、誕生から50年もたった今でも、どうしてこんなにも「あしたのジョー」は多くの人に愛されるのか、

昨日の『あしたのジョー展』でも、私と同世代、そして更に、その上の世代のいい大人のオジサン達が、一つ一つの原画と、その著者のコメントを食い入るように何時までも、時には目に涙を浮かべながら見入ってしまうほど、なぜジョーにこんなにも多くの人が深い思い入れを持つのか、

なぜ私がこんなにも繰り返し、DVDの再生ボタンを押さずにいられなくなるのか、その理由を考えてみた。

人間は誰でも、熱中できる事や、命を燃やせることに一生を捧げ、何一つ悔いは無いと言える瞬間まで徹底的にやり切りたい、自分の人生を全うしたい、という欲求がある。

これはとても自然なことで、この世に生を受け、魂を宿した瞬間から、それこそが私たちの生きる目的のようなものだからだ。

しかし、実際にはアニメのように「完全燃焼」で人生を終えることは、難しく思える人がほとんどだろう。

そうは簡単にいかない日常の仕事や家庭という現実が目の前に立ちはだかる。

周囲の人との関わりや、社会のルールの中で、どうしても色々なものを我慢したり、理性でコントロールして行かなければ、生きて行くことは難しい。

逆の言い方をすれば、そういう苦しい経験をもさせてもらえるからこそ、喜びや感動を味わうことが出来、生きることを楽しむことが出来る。

光の中にいたら、自分が光であることが自覚できないのと同じで、影があるからこそ光を自覚出来るという、パラドックスがそこに存在する。

だが人は、理屈では「苦しみの中にこそ学びがある」と知りながら、やはり大好きなことだけに熱中して燃え尽きる、「あしたのジョー」のような生き方に憧れ、共感を持つ。

「そんな生き方は叶わない」と知っているからこそ、強烈に惹かれるのだ。

繰り返しビデオの再生ボタンを押さずにはいられない私の行為は、まさに「依存」そのものである。


▲『あしたのジョー』連載開始50周年記念PV

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