《第36話》
ある日、会社を辞めた東山さんから電話がかかってきた。
東山さんは、独立すると言って会社を辞めたきり、私も連絡を取っていなかったし、何をしているのかも全く知らなかった。
風の噂では、能力開発とは全く異業種の仕事をやっている、とだけは聞いていた。
しかし、直接彼の口から発せられた話は、人材教育サービスの事業だという。
良く聞けば、結局私が一番やりたかった、能力開発のサービスを提供するという内容だった。
久々に会って二人で飲むと、東山さんは相変わらずのパワーで、自分のやろうとしている事業の夢を熱く語った。
私は最初、ただ何となく「あぁ、そう」と相槌を打ちながら聞いていた。
東山さんは、会社を辞めてからそれまでの数ヶ月間、会社設立のための資金調達や事務所の設立、外部協力者との人間関係構築活動に追われ、実質的な営業活動はこれからだということだった。
そして、東山さんのお兄さんが元々起業家で、共同経営者として役員になっていたが、私と会った丁度その頃に抜け、その会社には実質、東山さんと若いアルバイトが一人だけ、ということだった。
私は飲みながら、最近自分が抱えていた心の葛藤について、東山さんに話し始めた。
心の世界の無限の可能性。
理想の能力開発サービスを確立したい夢。
企業という枠の中で、理想だけを追えない現実。
組織の管理体制の中での窮屈さ……
そして、自分が心の世界のあらゆる分野を追究し、実体験を通して知り得た世界中のノウハウを集め、自分が思う最高のサービスを提供してみたい、
誰に気兼ねすることもなく、自分の持つ情報を惜しみなく、お客様に提供してみたい、
そんな夢のようなものを語った。
そんな話で盛り上がっている時、東山さんが急にこう言った。
「田久保さん、それこそ私がやりたい事なんですよ!」
すると東山さんは、熱の籠った口調で、とんでもないことを言い始めたのだ。
「田久保さん、一緒にやりましょうよ!
いや、田久保さんが必要なんですよ。
実は今日、田久保さんを誘うために来たんです。
田久保さんはあの会社で葛藤を抱えたまま萎んでしまっていいんですか!
自由に理想を追究して大成功を勝ち取りましょうよ!
田久保さんのパワーと営業力が必要なんですよ!
田久保さんがいなけりゃ、俺一人じゃ出来ない。
俺は独立した時、実は最初から田久保さんを誘うつもりだったんです!」
「それ、本気で言ってるのかよ(笑)」
「本気ですよ!何なら田久保さんが社長でもいいです!社長として迎えますよ。一緒に経営しましょう!
田久保さん、今は立ち上げで何にもないですけど、資金はなんとか確保しましたから、軌道に乗る1年くらいは報酬も保証しますよ」
彼が提示した額は、当時の私の平均月収の3分の1にも満たなかったが、それ以上に、東山さんが私を強烈に信頼し、必要としてくれている、その熱意がビンビンと伝わって来た。
また、自分が精神的に行き詰っていたそのタイミングと、彼がやろうとしていた経営のビジョンが、自分の理想とあまりにピッタリと一致しており、その時点で自分の心は、かなり大きく動いていた。
私が昔、まだ全くの世間知らずで、幻の成功を夢みていた頃、挫折を味わいながらも、その後、シンクロが重なって、導かれる様に成功哲学教材の会社に入社した。
そこには、以前の記事『道具より魂は磨かれているか』に書いた様に、当時の自分に最も必要だった魂磨きの場が、まるで仕組まれていたかのように用意されていた。
まるで、あの時を彷佛とさせるかのごとくに、実はこの後も、私が自分探しの新たなステージへ導かれていく時には、決まって不思議なぐらいにシンクロが起こり、あらゆる状況が整えられ、タイミングが一致する。
この時も、あらゆる符号がピタピタっと一致し、まるで全てが用意されていた道であったかのように障害が取り除かれ、目の前に道が開かれていった。
その日は話が盛り上がったものの、かなり酒も入っていたし、
「まあ、とにかく前向きに検討しよう。でも、その気になったよ。一度、事務所にも言ってみるよ」
とだけ告げて、東山さんと別れた。
「独立か・・・」
その日から、私の心の中で独立への妄想が大きく働きだした。
確かに、次なるステージへの意識転換がすでに数ヶ月前から始まっていたことは自覚していた。
しかし、私の発想の中には、この会社を飛び出しても、どうやって会社を立ち上げればいいのか、そもそも経営とは何なのか、全く分かっていなかったし、
新卒で入社した時の会社を勢いだけで退職した後、かなり苦い経験をしていたので、会社を辞めたい気持ちはあっても、辞めた後、どうすればいいのかを考える術を知らなかった。
ところが、私の心の葛藤と独立への意識が、ちゃんと期を熟すのを見計らっていたかのように、あまりのタイミングで、東山さんが現れた。
しかも、足踏みしていた自分を後押しするように、既に企業のための準備はほぼ整っているという。
明らかに、私の心は独立の方向へ傾いていた。