《第32話》
私と東山さんは、共に北野本部長に惚れ込んでいた。
もちろん、私たちだけでなく、外交セールス事業部の中で、北野本部長の求心力と部内の結束は、とても固かった。
しかし、特に私たち二人は、北野本部長に可愛がられた。
その時代、北野本部長と東山さんと私は、3人で良く飲みに行き、仕事や営業について何度も熱く語った。
私たち二人にとって北野本部長は、既に上司としての域を超え、無条件に信頼できる“親父”のような存在となっていた。
「俺、北野さんが強盗をやれと言ったらやれますよ」
そんなことを本気で口に出していた。
そんなある朝、大事件が起きた。
その日の朝は、いつものように幹部ミーティングが行われる予定になっていた。
私がその会議の席に着こうとすると、何やら様子が変だ。
数名の幹部が、顔を引きつらせて話をしている。
「何かあったんですか?」
そう聞くと、あまりにもショッキングな言葉が、私の耳に飛び込んで来た。
北野本部長が、突然辞めることになったと言うのだ。
理由を尋ねても、誰一人明確に答えられる者がいない。
深い事情は私には分からなかったが、状況としては、北野本部長が突然、解雇を言い渡されたらしい、という事だけは分かった。
晴天の霹靂とはこの事だった。
とにかくその1日は、仕事どころではなかった。
いったい何が起きたのか、しばらくは自分の頭で整理して考えることが出来なかった。
そのぐらい、動揺していた。
当時、この事件の真相は全く明らかにされていなかったが、北野本部長は不条理に辞めさせられた、という噂が流れた。
「なんなんだ!この会社は!」
東山さんが椅子に体を投げ出すように座り込んだ。
その時の東山さんの、悔しさというより、憤りを抑えきれない、怒りに満ちた表情は、いかに彼が北野本部長に惚れ込んでいたかを物語っていた。
私と東山さんは、北野本部長が辞めた後も、北野本部長に直接会いに行き、「後を追って会社を辞めます!」と話したこともあったが、
北野本部長は流石に冷静で、若かった私たちの将来を案じ、自分のためにバカな決断をするな、と私たちを引き止めた。
実はこの後、北野本部長が会社を去った僅か数ヶ月の間に、北野本部長は会社に復帰したのだが、その理由は、北野本部長がいなくなったことで、外交セールス事業部がその求心力を失い、バラバラになってしまったからだ。
後任のヘッドは定着せず、部は崩壊状態だった。
北野本部長が戻って、外交セールス事業部は息を吹き返し、表面的には何事もなかったかのように見えたが、
この時すでに、私や東山さんの心の片隅には、会社に対する小さな不信感が芽生えていたのかも知れない。
何か、目には見えない大きな磁力が、少しずつ変化を始めたような感覚があった。
また、この頃から私には、ちょっとした悩みがあった。
前回話した通り、私は当時、2つの部署の責任者になっていた。
B商品課と、女性向けのヒーリング教材販売部門。
両方を合わせると、15~16名の部下を抱えていた。
また、当時はB商品課もかなり会社からの信頼も得ていて、業績も伸びていたために、予算の稟議も通りやすく、会社内のセミナールームで行うセミナー以外にも、全国の地方都市で、セミナーを開催するようになっていた。
地方で開催されるセミナーは、現地の有料会場を借りて、新聞の地方紙などに広告を出し、DMを出すなどして人を集める。
当然、会社からかなりの予算を投入してもらうため、地方でのセミナーは、成功すると大きな売上貢献にも繋がるが、失敗は許されず、結果に対するプレッシャーも大きかった。
課内でも、この地方出張に同行する切符を手にいれようと、部下も必死で売上を伸ばし、私の信頼を得ようとする。
せっかく、時間とお金を投資してセミナーに参加されるお客様のためにも、そしてプレゼン方法を必死に学ぶ部下たちの前で、恥ずかしくない仕事をするためにも、
常に初心を忘れず、スキルアップのための自己投資に、私は多くの時間を割いた。
もちろん、通常業務としての営業活動も止める訳にはいかない。
私はこの頃、多忙を極めていた。
忙しいことが嫌だったわけではない。
むしろ、そうやって営業やスキルアップのための自己投資をしている時間は、楽しくて仕方なかった。
私の悩みは、私のお客様へのフォローだった。