私が長年、スピリチュアル情報を学ばれている方々の悩みに向き合ってきて、皆さんのご意見をお聞きする時、いつも思い浮かぶのが、「群盲象を評す」という寓話です。
有名な寓話ですので、ご存じの方も多いと思います。
この寓話は、様々な角度で表現、解釈されている情報ですが、田久保剛なりの解釈で表現します。
私達人間が「エゴ」を手放し、自分を通して本当の自分、「普遍意識」が自覚に至るヒントになれば幸いです。
一部と全部
何人かの盲人に、王様が、「『象』を撫でてきて、報告しなさい」と命じます。
盲人達は、目で見る事のできない「象」を撫でてきて、その感想を言い合う話です。
それぞれの盲人の象を撫でた報告は、
鼻を触った人は、「太いホースのようだ…」と言い、
胴を触った人は、「巨大な壁だった…」と言い、
尻尾を触った人は「太いロープのようだ…」と言い、
足を触った人は、「丸太のようだった…」などとと言う。
さて、このそれぞれの盲人の意見に王様は、「みんな正しい!」と言います。
「しかし、その実体、全体像を捉えていない」とも付け加えます。
この盲人たちは、最初、自分とは違う意見をお互いに否定し合って険悪になりますが、
それが、王様からのヒントによって、「象」全体の一部である事に気づき、その理解を前提にして、そのそれぞれの解釈をつなぎ合わせた先に、浮き彫りになった真実を悟ります。
♪「すべて何かのイチブってことに僕らは気づかない」
(B’z「イチブトゼンブ」より)
そんなB’zのフレーズを思い出しました^^
全ての情報は解釈
では、この寓話を「スピリチュアル情報の解釈」というテーマに置き換えると、
「盲人」が象徴するのが、「自我意識」(エゴ、分離意識)です。
「象」が、「普遍意識」、つまり、実在するもの、真理という事になります。
そして、それぞれの盲人の意見が、巷にあふれる「スピリチュアル情報」です。私が発信している情報が巷にあふれているか分かりませんが、それも含めてです(笑)
「いや、でも●●さんの言っていることは本物ですよ…」
「宇宙存在の●●こそ真理なんじゃないですか…」
「でも、『黎明』は別なんですねよ?」
という意見もあるかもしれませんが、それも、この話の整理で言うなら全部含まれます。
間違っているとか、偽りだ、という事ではなく、多くの場合、ある枠組みの中で、その表現者の主観で捉えた真理を、言葉という、実在そのものを表現できない道具で表現している、という事です。
もちろん中には、サボって、「象を撫でてきた」と偽って、適当な事を言ったり、「象」と勘違いして、「カバ」を触った意見も混じっているかもしれませんが(笑)
そういう玉石混淆である事を配慮しつつ、まさに「スピリチュアル情報」の表現は、似通ったものが多い反面、どうにも矛盾するものも沢山あります。
そして、更に言えば、その情報を受け取っている側のフィルターで解釈するので、「象」の表現は、丸太とか、ロープとか、ある程度、共通認識のある表現で解釈できますが、
霊的真理の情報は、形が無い故に解釈の表現も抽象的な場合が多く、強烈な伝言ゲームの結果のような解釈になりがちです。
そういう意味では、それがたとえ「大師」が語った言葉でも同じです。
解釈を認め合う先に顕れる真理
話を戻すと、そういった様々な解釈を、寓話の盲人達が最初にしたように、それぞれの解釈を否定し合あうと、他者を否定する姿勢がより分離感を強くすると言う「エゴ・トラップ」にハマってしまいます。
では、どうしたらいいのでしょうか。
それぞれの解釈を尊重して、そして、それらを自分自身の解釈の参考にし、それをヒントにまた自分なりの実践、つまり寓話で言う「象に触る」という行為を別側面で実践していくことで、結果、視野が広がり、理解が深まる。
簡単に言えば、認め合うことができればいいのです。
♪ 「ひとつにならなくていいよ 認め合うことができればさ」
(Mr.Children「掌」より)
そして、ここが重要ですが、その延長線上に目覚めがあると言うより、様々な側面の解釈を認め合って視野が広がる事により、ある時、幻想が覚める、真実が見える、という事が言えるのです。それは、解釈という段階を超越した真実の体験です。
本当は、その「象」の全体像をすでに識っている、見たことがある、というのが真理だと言うことです。
しかし、その「象」の様々なディテールを経験する為に、あえて自我意識に閉じ込めて、潜在意識の奥底にしまい込んで、忘れているだけだからです。
だから、必要なプロセスを経験したら、思い出すのです。
これは、必ずしも複数の人の解釈が必要、という事ではないのですが、解釈を一つに固定化してしまうと、その執着がまた真理の悟りを阻みます。
ですから、一つの事象も、正しい霊的真理の観点からの様々な側面の解釈があると、固定化したり、誤解しにくくなります。
他者の解釈は協力者にして自らの裡に光明を見出す
また、そういった「自我意識」の視点の解釈ではなく、先に「究極の真理を悟る」事で真実は見えるんじゃないか…そういう視点もあります。
私もそう思った事がありますし、一理あるのですが、「究極の真理を悟ろうとしているのはエゴである」と分かった今は、別の捉え方をしています。
そのエゴが求める「究極の真理」の悟りは往々にして、分離感の強い視点、言い換えれば、エゴの視点が捉えた「究極の真理という幻想」である。
その「究極の真理」を「ひとつに目覚める」「一元」を悟る、もしくは、「非二元」を悟ると表現するなら、
二元の世界の中心で「非二元」を叫ぶ…
的な感じです。
それは多くの場合、「非二元」という二元の視点で観た解釈、もっと言えば「幻想」なので、それは真理に目覚める大いなるヒントにはなりますが、それをエゴで先に求める事ではないのです。
その大いなるヒントを前提に、今の自分が認識した側面と、他者の解釈の側面を参考にしながら、自分自身の経験を積み重ねて、自らの内側から、その真理に結果的に至るのです。
これが、私がよく表現する「真理(答え)は先に立たず」という事です。
ひとつにならなくていいのです。ひとつから来ていて、今もひとつで、ひとつに還るのですから。
「『象』を撫でてきて、報告しなさい」、と命じた王様が盲人達に望んだことは、先にその実体(答え)を見る事ではないのです。
普遍意識(王様)は、その分離した視点でそれぞれの盲人(担当者、自我意識に囚われた人間)が経験した、それぞれの役割を認め合って、結果的に、全員で、その真理、実相、実在を思い出す、そこに至る『プロセス(経験)』なのです。
そして、他者の解釈を鵜呑みにしたり、その情報に惑わされるのではなく、それらを全て、
「自らの内に光明を見出す」
ためのヒント、協力者として、自分の視点、自分の解釈を、自分の状況に置き換えての“実践”通して、「普遍意識が自覚に至る」事が重要なのです。
この「自らの内に光明を見出す」という事は、とても重要なことなので、より詳しく、また別の記事に書きたいと思います。
【文中引用文の参考動画^^】
この曲の田久保の解釈に興味がある方はこちらも参考にしてみて下さい^^
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