Q.「田久保さんは瞑想を継続していますが、
瞑想を習慣化するのは簡単ではありません。
瞑想を習慣化、また、ハマったきっかけは何ですか?」
というご質問についての田久保剛のコメントです。
「形に於ける瞑想」と「瞑想の本質」
私の「瞑想」の捉え方は大きく2つあります。
多くの方は、「瞑想」というのは、いわゆる、目を閉じて、そして意識を内側に向け、じっと座る、あの形が思い浮かぶかと思います。
私は、それを、「形に於ける瞑想」として区分けしています。
本来は、何の為にその「瞑想」をやっているのか、という事なのです。
それを言うと、
「自分で自分のことに注意深く気付いている」
というのがまずひとつです。
自分で自分に気付いている、注意深く。且つ、その自分の状態に、ジャッジを持ち込んでいない状態です。
つまり、「ああ、こんな自分でダメだなぁ…」とか、もしくは、「こんな自分、なかなかいいぞ…」とかもなく、唯、「あ、こういう自分がいるな…」
この状態を保てていることを「瞑想」と私は本質的には言っています。
そして、その為にはどうするか…の方法(形)がいろいろあるのです。
「瞑想」をする動機
私が社会に出たての二十代中盤ぐらいの頃には、なんとか自分のコンプレックスを克服する為にはどうしたらいいか…そういうところから自己啓発の学びに入って、
今度、だんだんと、成功哲学、願望実現法というものを探求しだして、いわゆる自分のエゴ的な願望をどんどん満たしていって、
でも何かその先にあるぞ、その先にあるぞ…って、どんどんステージがチェンジしていったのです。
ある時、
「なんで、いろんなものを欲しがるのだろう…」
「なんで、こんな、もっと金が…」
「もっとこういうもの欲しい…」
ってなるんだろう…って問うたら、それは“持っていないから”だなと気づき、
でも、何かスピリチュアルな本では、「あなたの本源は神ですよ」って言っているのです。神、つまり完全、完璧、全部満たされている存在だって理屈では書いてある。
この神の意識に行ったら、「欲しい」という感じではないんだろうな…って思った訳です。
つまり、「この、あくなき欲求から解放されたい…」っていうのが最初の私の動機だったのです。
その為に何をしたら良いんだ…っていろいろ探求していった時に「瞑想」というのが出てきたのです。
だったら、「俺はそこ(神意識)に行きたい」だから、「瞑想」しようするぞ…と思い、その頃まだ今のようにインターネットが発達していないような頃だったので、
本屋さんに行って、いろんな瞑想の信頼出来そうな本を買って、その先生のところにぶっとんでいって教わっていく中で、本質に基づいたものと、そうではないものと、いろいろなものをやっていったのです。
そのプロセスで私は、なるほど、こういう形で「瞑想」するんだな…って、学んできた「形に於ける瞑想」をやっていたのですが、おっしゃるように、やっぱり続かないのです。
あそこまでの情熱で、学んだにもかかわらず続かない…そして、続かない自分をジャッジする…
「ダメだなぁ」って…
そんなプロセスを私も踏んでいきました。
「形に於ける瞑想」の価値
丁度その頃、1998年12月ですね、『黎明』と出逢って、『黎明』の中に、先述したような、本質的な瞑想について書いてあったのです
「ああ、瞑想ってそういう事なんだ…」ということで、だんだん「瞑想」そのものの形をする、ということにあまり囚われなくなってきて、
それよりも、まず「自分で自分の事に気付いていて、且つジャッジを持ち込んでいない状態」を保ち、ひとつひとつの事をきちっと丁寧にやっていく、ということにチェンジをしていったのです。
ただ、やっぱりそれも、やったりやらなかったりの波がある状況の中で、
「ああ、『瞑想のあの形』っていうのは、日々、自分が『瞑想』の状態を保つためのトレーニングになるんだ…」
という事が分かって来たのです。
つまり最初は、「瞑想」のあの形で「悟るぞ」、なんて意気込んでやっていて、それはかなり目的がズレていたのですが、
そうではなくて、日々自分が、「日常生活の目の前の仕事に対して神の愛を降ろす、神の光を降ろす」という「瞑想状態」を創りやすくなる為に、あのトレーニングをやった方が効果的なんだ…っていうことがわかったきたのです。
つまり、私の中で動機が明確になったのです。
形に於ける「瞑想」をやる価値が分かって来たのです。
だから、私の場合は、最初は、「何か『瞑想のあの形』をやったら悟れるんじゃないか」とか、「あれをやったら、神に到達するんじゃないか…」みたいな、ちょっとズレた目的で、なんとなく曖昧にやっていたので続かなかったけど、
ああ、これ実は、『日常に於ける本質的な瞑想状態』を保つ為に、すごく有効な事なんだ、って私の「形に於ける瞑想」の価値が変わったのです。
価値が変わってからは、頼まれなくてもやりたくなる、というか、そんな感じです。
「俺の楽しみの睡眠時間を邪魔するな…」に近い感じで、「俺の楽しみのこの瞑想時間、絶対確保してやる…」
(まあ、確保してやる!ってそんな気合いを入れているわけではないのですが(^_^;)
やりたいからやっている。
っていうふうになってきたのです。
だから、自分にとって「形に於ける瞑想」が、何の価値があるのか、という価値のチェンジがあったことは間違いないですね。
それからもうひとつの側面としては、その「形に於ける瞑想」をやる、ということにも、それほど囚われていない。出来ない時はやらないし、眠い時はやらないし、でも、やれる時はやる。
そして、それは何の為かというと、日々自分が(神に因って)派遣された先で、最高の「神の道具」としてのパフォーマンスを発揮するためのトレーニングとして、
毎日朝、走っていれば、マラソン大会でもいいタイムがでるように、走っていないと、ゲホゲホやっちゃうように、
そういう、日々の在り方の為のトレーニングとして有効なものが「形に於ける瞑想」の価値だと繋がったので、
自分がこの次元にいる本当の意味を支える、とても有効な方法。ごはんを食べるのと同等か、それ以上に価値がシフトしてきた。
そういうプロセスを辿って身につけた、という感じです。
参考にしてみてください。
●日常生活で普遍意識に意識を合わせ続ける本質的瞑想法
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