愛と思えない人や出来事の真理と神が人間に望む事

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田久保剛/CTPeak

前回の記事、『奉仕の本質「神への奉仕」について』の続きとして、

「神への奉仕」を協力する存在、私達にとって、ネガティブな表現として映る他者や出来事の真理についてお伝えします。

この分離が表現された世界の真実を理解し、「神への奉仕」をする事が、この世界の正しい向き合い方であり、この次元を卒業するポイントになります。

「神への奉仕」を協力する自他が分かれた世界

エゴ、自我意識(分離意識)を持って私達は人生に向き合っています。この分離意識を通して表現される世界の全ては、神への奉仕の機会と言えます。誰がそれを協力してくれているか…

一なる意識(神)が、分離を表現して、自分以外の他の役割を演じて下さっている方々、あなたの家族であったり、今目の前に起きている事を通してお手伝いしてくれているのです。

私達は、一なる意識(神・普遍意識)の一側面(魂の個的表現)が肉体を通して表現している存在です。その肉体を持った自分の視点から見て、外側には他人が、自分と同じ本源の意識の別の魂の個的表現として肉体を通して存在しています。

この一なる意識(神・普遍意識)が、ある魂の個的表現の成長、課題にとって必要な事を、様々な他人が演じてくれていて、もちろん、その他人からみたら自分もその人に対して、まさに奉仕の機会を演じる協力者になっている訳です。

私の大好きな言葉に、「我以外皆我師也」という座右の銘の一つがあります。つまり自分以外の、私達の人生に現れていろんなことを演じて頂いている方々は、全部、私達の師である…

何の師かというと、まさに今の話になぞらえるならば、私達がより神様に近づく為の奉仕、神への奉仕の機会を与えてくれているという事です。

愛に見えないからこそ出来る経験

「神への奉仕」は、どちらかというと、相手がネガティブな表現をしている方が、より貴重なプロセスになる…という言い方もできます。

神様に奉仕する…それは、相手のどんな表現をする人の中にも神性を見出し、どんな酷いと思われる出来事の中にもその真理を見出さなければならない。

「こんな私でも、私の中に愛を観れるかい?」「こんな出来事でも、その本質を観ることができるかい?」と…

もちろん顕在意識でそんなことを思っていませんが、ある人が凄くネガティブな表現をしていて、でも、もっと意識の深い所では、「こんなネガティブな表現をしている私の愛を観れるか…」というふうに言われているような感じです。

もとろん、ネガティブ表現をする人ばかりだったら、私達は気が休まらないですから、他にはちゃんと分かりやすく愛を表現してくれる人もいたりします(^_^;

でも、中には厳しい役割を演じきってくれる人がいるのです。その時に私達は表面的なもの、自分の心の反応、自分の価値観の反応だけにフォーカスを当てていると、中々「神への奉仕」が難しくなる。

「まてよ…」と、気づかなければいけないのです、心の反応に。

カチンときてるぞ…ムカッときてるぞ…また腹立てているぞ…

でも、それに気づいて少し距離をとって、「そうか…この人は神への奉仕の機会を私に提供して頂いているんだな…だとしたら、少しでもその人の神性に意識を向けて、自分はここに対して何を想い、何を語り、何を行為する事ができるだろうか…

たとえばですが、そういうセットアップをし直す事が、「神への奉仕」に一歩近づく事になるのです。

神が人間に望む事

そして、神様は私達人間に何を望んでいるのか ー本当は同じもの、同じ本源なのですがー 私達に何を望んでいるかというと、「自分(本当の自分・神)に気づいて欲しい」のです。

私達は、スピリチュアル分野の概念を学ぶと、確かに概念上では、私達の本源は神であり、普遍意識そのものであると分かるかもしれませんが、それを本当に分かる事を神は私達に望んでいるのです。

つまり、普遍意識は、一旦自分を忘れさせて、人間という分離意識を持った表現をして、でも、その分離を表現したからこそ出来る、また戻ってくるプロセスを通して、「自分(神・普遍意識)」とは何なのかということの、いろんな角度の経験を私達に望んでいるのです。

自らを分離させた存在によって、また自分に戻ってくる(思い出す)事による経験、一旦離れて“戻る”ということが大事なのです。

神・普遍意識そのものがゴールだったら、離れる必要は無いのです。離れている事に意味があるのです。離れる事によって戻る経験が出来るのです。(真実は常に離れておらず、その様に見える分離意識という幻想の世界を通しての経験)

たとえば地球だけで言えば73億通りの、神から離れ、神に戻る、その離れて戻るまでの経験を望んでいるのです。それを簡単に言えば、神様が望んでいる事は「本当の自分」に気づいてもらう…ということです。

自分に気付く為には、一旦、自分(神・愛)とは思えないようなものを経験する必要があります。ネガティブな表現の人と出会ったり、どう見てもこれだけは神の表現じゃないだろ…みたいに思ってしまうようなものと出逢うことによって、

でも、その中から自分の捉え方を変えてみたりとか、いろんなことを試行錯誤しながら、

「ああ、こういうことだったのか…あの人が、あの表現をしなければ絶対にこの事に気づけなかったぞ」
「ああ、あのことがあったからこそ私はそれを乗り越える努力をして、結果、本当にやるべき事に導かれたな…」
「今のこの自分の立ち位置というのは、あの出来事、この出来事、あの人、この人、その時はものすごく嫌でたまらなかったけれど、あれがなければ絶対にここにいないよな…」

と、後になって気づくような、いろんな奉仕(協力)者達の真実に気付いた時に、これは神様から言うと、「ああ、ひとつクリアしたね」「一歩近づいたね」、そして

「私(神)の中に在るいろんな無限の可能性の一側面を体験して頂いたね…ありがとう」

「私(神)に奉仕してくれてありがとう」

って神様が自分の一部に言うのです、あえて寓話的に表現すると…

人間は「神の道具」である

だから、「神への奉仕」というのは、神様が、私達に望む事に奉仕する…という事です。私達に望む事は何かというと、一見、ハードルに思えるような出来事の奥に在る、自分の真実を見出す、「神への奉仕」をする。

この事を私はよく、“私達(人間)は「神の道具」である”と表現します。

神様と、神様が使う手下のような道具、という意味ではなく、神が自らを体験するためにあえて自分から、自分で自分を分離されたように見える表現世界の中に創った道具、つまり素は同じなのです。

だから、私達人間は、神様の協力者である…ということです。

次元という観点から表現すると、神様は物質次元で自分を表現したら何が表現されるんだろう、この物質次元で神様を創造したらどうう創造ができるだろう…という事を実現する為には、物質次元と同じ物質体を持った自分の分身、神の分身が必要なのです。それが私達である…ということです。

私達人間がいて初めて成就されることがあるのです。

この「神の道具」である私達が、その道具を自覚して、且つ、どういう性質をもった道具なのか…

73億通りに性質があるのです。同じだったら二つ同じ道具はいらないのです。

オリジナルの「神への奉仕」の仕方があるのです。私達の持ち合わせた過去の経験、自分の性質、性格、自分の興味、関心、過去の色んな出来事を総動員して、今できる表現がある訳です、それが「神への奉仕」なのです。

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