先日の『普遍意識瞑想セミナー』に再受講でご参加頂いた方が、数ヶ月の「普遍意識瞑想」の実践で非常に興味深い、体験に基づいたごご質問を頂きました。
この方が体験していることは、まさに、この普遍意識瞑想が正しく実践出来ている証のひとつでもあり、その瞑想の本質的な目的を理解する上で、とても参考になると思いましたので、田久保剛の見解を添えてご紹介します。
目次
瞑想を続けてきたら「欲」がなくなっていた
そのご体験を要約すると、
「5月に受講してから、毎日、普遍意識瞑想を行っているが、特に、固定的な変化は求めてなかったが、あれっ?て気付いら「欲」がなくなっていた。
食欲、物欲、等がなくなってしまい、同時に、怒りっぽかったけど、その「怒り」がなくなってしまった。
こういう事は、瞑想実践の結果として起きうる事のか?」
との事でした。
私は、「食欲、物欲等がなくなった事が、人生にネガティブな影響をもたらしてますか?」と、念のため確認しましたら、
「全くその逆であらゆる面で良い影響がある…」「身体もすこぶる健康で、心も研ぎ澄まされ、とても調子がいい」というような事もおっしゃっていました。
更に色々とお話を伺っていると、価値の大きな転換、シフトが起きているようでした。
これは、今迄価値を持っていた、物質的、もしくは社会的な価値観から、霊的真理、本質への価値観へ意識が大きくシフトしていて、しかし、その過渡期でもあるので、現在、携わっている物質的、社会的価値に基づいた現実に、その霊的真理、本質へ転換された価値を、どう適応させて行くべきかを模索中のようでした。
これは、社会的価値から、霊的価値に価値観がシフトしていくプロセスで、多くの方が体験する葛藤でもありますが、それは霊的真理、本質の視点から見れば、祝福すべき事であって、真の豊かさや真の人生の目的、使命成就の大きな入り口でもあるのです。
またこれは、別の側面から表現すると、自我意識、分離意識の幻想の囚われから解放され、普遍意識に目覚める過程で体験する、魂の成長、霊性の向上という視点では、順調な状態とも言えます。
持っているものは欲しがらない
さて、そもそも個人的な欲望はどこから生まれてくるのでしょうか?
それは、不足感から生まれるものです。
私たちは、充分持っているものを欲しがりません。持っていないもの、不足しているものを欲しがります。
本質的に言えば、不足感は、分離意識、つまり、総てが在る、全体意識、普遍意識から、自分は分離しているという錯覚、幻想に囚われるが故に生まれてくる感情です。
本当は、総てが在るのに、その真理を忘れ、欠乏している、という認識が生まれ、その欠乏の穴を埋める為の対象を、外(現象、物質次元)に求めるのです。
一生かけても使い切れないような巨万の富が銀行に預金してあるのに、その事を忘れてしまっていて、お金が無い!と一生懸命お金を追い求めていた人が、ひょんな事から、その銀行口座の存在を思い出し、お金を追い求める行為がなくなるようなものです。
この譬えで言うなら、「巨万の富がある」というのが真理であって、「お金がない」というのが、忘れてしまった(分離してしまった)故に生じた、思い込み(錯覚)なのです。
「お金がない」と思い込んでいれば、当然、「お金」に対する欲望が生じますが、「巨万の富がある」という真実に気付けば、「お金」に対する欲望はなくなるのです。
真の豊かさを手にする
その真理、つまり、自分は欠けた存在ではなく、満たされていたのだ、ということに目覚めると更にどのように発展していくでしょうか。
一つは、無限に在るから、それを使う、という発想、つまり、自分が持ち合わせている財産を与えるという発想、そして表現、創造活動にシフトしてきます。
そして、「欲がなくなる」とだけ聞くと、なにか無味乾燥な面白みのない清貧の思想的な印象を抱く人もいるかもしれませんが、実際はその逆で、その満たされた波動が、満たされた現象をより創造し、喜びのエネルギーが、喜びの現実を引き寄せていくのです。
これは、「本当は満たされているんだったら、満たされているんだって思い込もう」という事ではありません。
満たされている真理に意識を合わせていった結果、その真理の波動が共鳴してきて、そのエネルギーを呼び込み、結果的に幻想が消え去り、真実に目覚めるのです。
これは、様々な欲望のみならず、日常生活の中で、私達人間の心の中に生じる、不満、不安、恐怖、心配、怒りといった、分離意識や物質次元に囚われた意識が生み出す産物に対しても同じ仕組みなのです。
物質次元に表現された世界を分離意識で捉え、欠乏感の反動として手にする一時的な豊かさではなく、真の豊かさを手にするのです。
次の「黎明」の引用は、冒頭の体験者のように、まさに現象世界という幻の世界に対する欲望から、霊的真理の真の豊かさへシフトしてきている魂の方々へのエールともいえるでしょう。
有為転変の現象世界では、何を追及したところで一時的な満足しか得られないことは、誰でも心の奥底では識っていますし、永続するものなど何ひとつない世界に意識を向けている限り、心は常に揺れ動くことになります。
こうした現象世界に対する不信が、本物を求める魂の叫びとなって顕れてくるわけですが、その人の関心が現に今、地上的な出来事よりも霊的な本質に向いていること自体が、本人の魂の成熟を意味しており、今生で解脱に至る可能性を持っていることの裏返しであると言う点を理解して頂きたいと思います。
(中略)
現在の地球生命系に使命を持って降り立った、目覚める可能性を持った魂の皆さん達にとっては、現象に囚われて寄り道をしている時間はもはや残されてはいないと言う事実を、はっきりと自覚して頂きたいと思います。
(「黎明」葦原瑞穂著・太陽出版・下巻P214〜215より引用/赤字は田久保)
実際に存在しているものだけを見る
さて、この世界で唯一、実在しているものは何でしょうか。
私たち人間の意識の最も浅い(低い)意識が、物質的、もしくは、自他の区別という分離が現実にあるように見える、分離意識だとした場合、
その対極の最も深い(高い)意識は、全体を見渡せる、一切の分離が表現されていない、ひとつ、一元の意識です。
その、分離意識を通さない、純粋なひとつの意識こそが、全体意識であり、神意識であり、それを、愛、光、という言葉で表現する事が出来ます。
そこには、相対がなく、絶対の領域です。
つまり、愛一元、光一元、神一元。それだけが唯在るのです。
愛、光、神と表現できる絶対的な調和が、遍満している、いつ、どこ、という時空の定義のない、つまり、いつでもどこでも、愛だけが在る、光だけが在る、総てが在るという意識です。
そして、本来、それだけが実際に存在する意識、“実在”の意識です。
それが、遍在、遍満を意味する、「普遍意識」です。
この普遍意識を絶対的な光というならば、分離意識が生み出す様々なネガティブ感情や不調和な現象は、その分離意識で光を遮った影、つまり実体ではありません。
私たちは、実体のない影に意識を合わせるのか、それとも、実在の光に意識の焦点を合わせるかで、世界に見るものが変わるのです。
「常に神と共に在る」ことを思い出す
「普遍意識瞑想」は、まさに、実在に意識を合わせる手法です。
私たち人間の多くは、つい日常で、影、つまり、分離意識故に生じるあらゆる実体のない雑多な想念に無意識のうちに意識が合ってしまい、無意識に巻き込まれてしまっています。
それらと闘う、抗う、抵抗する、切除、排除するのではなく、むしろ実在に意識を合わせるための協力者に変えてしまいます。
影によって光に誘ってもらうのです。
そして本来、実在しているものだけに、徹底的に意識を合わせていくのです。
今、私がご縁のある多くの方に、お伝えしたい手法です。
私も、普通に悩みや問題、様々なネガティブ感情が反応して、それに巻き込まれそうな事はあります。
でも、その状態は、恐るるに足らず、なのです。
なぜなら、むしろそんな時こそ、「普遍意識瞑想」が、全智、万能、無限の叡智である「常に神と共に在る」真理を思い出させてくれるからです。
それを思い出す事で、真理が共鳴し、その光によって影が消え去り、光が差し込むようにして、徐々に光明が現象世界に顕現されてくるのです。
普遍意識瞑想は、私たちの体験している物質世界の現象という結果の、その原因想念の波動領域に直接、調和の影響をもたらしていきます。
もちろん、その手法は、実践しなければ意味はありませんが、「正しく理解」して「正しいやり方」を身につけ、実践する事で、私たちの本来の意識状態である、「普遍意識」の悟りに近づいて行くことが出来るのです。
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