囚われから解脱して「今・ここ」に実在を見出す

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田久保剛/CTPeak

スピリチュアル分野の情報では、「今・ここ」というフレーズがよく出てきます。

「今・ここ」の本質とは、私達の実在(神・普遍意識)です。
しかし、それは、学んだ事、知ったことで考えて見出せるものではありません。

私、田久保剛がお薦めする、「今・ここ」に、私達の実在(神・普遍意識)を見出す秘訣をお伝えします。

「今・ここ」の本質は「知られざるもの」

「今・ここ」、「今」ということの本質を、言葉で表現することはできないのです。

これは別の言い方をすると、「知る」ということができない、ということなのです。

私、田久保剛はよく、「“既知ブロック”を外しましょう」という話をします。

既知とは、既に知り得ている、という意味ですが、スピリチュアル分野の情報の本には、よく「今・ここ」というテーマができて、それによって様々な知識というものが、このような情報を学んでいる方は、多かれ少なかれ学んできていると思います。

そうして「ああ、『今』ってこういう事なんだ…」「『ここ』ってこういう事なんだ…」という、その知り得たことは、全て「今」の本質ではないのです。

「今・ここ」の本質は、“既に知り得ているもの以外”のものです。

「知られざるもの」、知る事ができないものなのです。

だから、私達は、「『今』って言われても…」と、どうしても「今」ということを頭で知ろうとすると、考えようとすると、人間がその事を論じようとすると、混乱が起きるのです。

よく、こういうことも言われます「時間って無いんだよ」と。

「いや、あるじゃないか…」

今日も皆さん、時間通りに来て、こうやって時間通り始まって、この後、時間通りに進行して、そして終了時間が来る…「あるのに無いってどういうことなんだ…」と、様々な混乱に陥ってしまうのです。

だから、そもそも私達人間が論じる、そして、知識として知り得るもの、その延長線上に無いもの、つまり、「無限なるもの」を有限に閉じ込めようとして理解しようとしている…それが、多くの人が、永遠にみんな、よくわからない、なんだか、わかるような、わからないような…

ここで私が述べている言葉そのものが、「今・ここ」という真理を知ることではなくて、それはあなたが、今、この瞬間、そして、日々の日常生活の中に於いて、自らの内側から発見するためのヒント、きっかけとして受け止めて頂ければと思います。

既知ブロックを外すと実在が見える

既に知り得たこと、これを「既知ブロック」といって私の造語なのですが、「既知ブロックを外す」とよくお話しします。

「今・ここ」に生きる、ということと、「既知ブロックを外す」という事がどう関係あるのか…というと、もの凄く関係があるのです。

「今」に、フタをしてしまう。「今」というものに正しく向き合えなくさせてしまう一つの要因が、この既知の情報です。

つまり、既に私達が過去、体験した事、経験したことによって、刻まれた記憶があるのです。私達は常に過去の記憶を参照して「今」に向き合っているわけです。

だから「今」の本質が見えないのです。

「今」って、「あの本には、こういうふうに書いてあったな…」「あの先生はこういう風に言ってたよな…」とか、全て既知でどんどん積み重ねて、

且つ、確かに過去のある瞬間には、「ああ、これが『今』ってことかもしれない」「これが『今・ここ』ってことかもしれない」「これが神に出逢うという体験かも知れない」という事すらも、私達の中ではひとつの固定化した記憶として刻まれていくわけです。

そして、その体験、経験、記憶、知り得たこと、教えてもらったこと、学んだ事…といういろんな既知のフィルターを通して、「今」に向き合っているのです。

だから、過去を今に再現しようとする、という癖、「今」を知ろうとすればするほど、ますます「今」の本質から遠ざかるのです。

そして、人間の枠組みで捉えた「今」というひとつの幻想を見て、でも、それは真実ではないから、どこかに違和感があるのです…「でも、なんかよくわからないな」「矛盾があるな」みたいな…矛盾があるのが正解なのです。

なぜなら、私達の人間では捉える事ができない。
知られざるものに一つのヒントがあるのです。

では、一生それを識ることができないのか…かというとそうではありません。

それが少しずつ垣間見えてくるのです。ある一つの、自分自身が、真理を見出す上で、必要な課題をクリアしていくと、要所要所、段階的に、「ああ、こういうことかも…」「ああ、こういうことなんだな…」という、

まさに言葉の説明を超えたものを少しずつ少しずつ、あるマイルストーン、ここまで行ったよ、ここまで行ったよ…ということをちょっとお知らせしてくれるようなご褒美のような、そういった経験が体験としてある場合の人と、何らかの形で現象として表れてきたりとか、それすらも人それぞれですが…

そのように、一生知る事が出来ないのではなくで、もっというと、元々その「今・ここ」の本質が、私達の出発点なので、最初から識っているのです。

ただ、最初から識っているんだけど、その識っている事を経験する為に、「『今・ここ』ということは、こういうことなんだな…」ということを体験する、そのプロセスを味わっているというか、そういうポジションに私達はいるんだな、ということもひとつ言えます。

「今・ここ」の本質は、言葉とか、知識とかで知るものではないのです。むしろ、言葉とか、知識の奥にあるのです。

人間の心の反応に気づいて見破る

では、どうしたらいいかというと、私達が、「ああ、これ知ってる」「ああ、これってこういう意味だよね…」「ああ、これってこういうことだよな…」というふうに、過去の体験や経験で目の前の事を処理しようとする瞬間に気づく必要があるのです。

これが凄く大事なのです。

「気づく」

私の話には、だいたい二言目にはこの「気づく」「気づいている」というキーワードが出てきます(^_^;

何に「気づく」のか、「既知ブロック」に気づくのです。

人間の「自我意識」故に出てくる様々な反応というのがあるのです。

そういう感情の反応に気付く。

なんで感情が出てくるかというと、その奥に思考があるからなのです。その思考はどこから出てくるかというと、過去の体験や経験、学んだ事、外側からいろいろと仕入れた情報の枠組みによって、価値観に因って、その価値観の中にいれば安心しているけれど、その価値観から外れている事が、外側から飛び込んで来ると、嫌だな、許せないな、とか、ムカッとくるな…とか、いろいろと反応する訳です。

だから、そういう「既知の情報」故に反応している自分自身の心に気づいていく。

気づくとどうなるかというと、「これは、『今』の本質で在る、実在しているものではなくて、私の過去の記憶に基づいたものが反応しているだけなんだ…」と、“見破っていく”という感じです。

見破る。

『人間の心の反応を見破る』

既知ブロックと同じ意味ですが、この「人間の心」というのがまさに「自我意識」です。

今、何の話をしているか。人間の過去の体験や経験、記憶に基づいて知らぬ間に築き上げられてきた、様々な枠組みに、私達の心が反応します。

「ああ、今、反応したぞ」

「この反応しているって言うのは、私の何かの過去の体験、経験、私が持っている考え方、信条、価値観が、何かに反応しているんだな…」

という事に“気づいて見破る”のです。

そして、気づいて見破っている時というのはどういう状態かというと、「客観的に観ている」という事です。

気づいて見破れていない時というのが、「ああ、ムカつくなぁ」「なんでこんな事が起きるんだ」「もう世も末だな…」「どうしてあの人はこうなんだ…」「どうして俺はこうなんだ…」とかと言って、その感情を自分、もしくは他人に向けていて、感情に巻き込まれている状態です。

その時は、見破れていない。

自分で造った囚われの洗脳を見破る

だから、ある意味では、自分で過去、築きあげてきた、体験、経験、価値観というものに、洗脳されている訳です、私達は。囚われちゃっているのです。

「囚われ」という字は面白いですね。「人」が「口」に閉じ込められている。この「口」が、まさに、自分で造って、自分が造ったルールに自分が囚わてしまっている。自分で造ったルールに、自分が洗脳されているのです。

そして、これは善いこと、これは悪いこと、これはダメだとか、意識的、無意識的に、自分で築き上げた枠組みに自分を閉じ込めて、そして、閉じ込められているという事にも気づいてない状態が、巻き込まれている…つまり、気づいていない状態です。

だから、それを見破るのです。

「お、俺は、自分で造ったあのルールに縛られているぞ」「あの価値観に縛られているぞ」「ああ、自分が信じていた、こういう考え方が、今、反応しちゃっているんだな…」というふうに、いちいち…面倒くさいですよ、これ(^_^;

「田久保さん、なかなか気づけずに、忘れちゃうんですよ」って当たり前ですからね。

真理の探究を生涯やり続けるんだな…というご意見もありますが、その通りなのです。

その為に来たのですから、私達は、ある意味、この地球上に。

もっと言うと、それが出来る有り難いステージなのです。

なので、それを地道に地道に見破りながら、手放して行く。

「手放す」とはどういうことかと言うと、「そういう考えを無くす!」という事でもありません。あってもいいんだけど、距離をとって置いておく…という感じです。

そして、「これって、必要かな…」と問うてみる。でも、必要な事もいっぱいあります。私達は。生きて行く上で、過去の知り得てきた事、考え、教わって来た事って、生活に必要な事もたくさんあります。

だから、よく「手放す」というと、忘れ去ることと勘違いしちゃう人がいますが、そうではなくて、単に、それに囚われていないという事です。

距離をとって置いておいて、必要な時に使えば良い。「でももうこれいらないか…」と。小学校の時遊んだおもちゃは流石にもう、よっぽどコレクションとして飾っておきたい人は飾って置いてもいいけど、「もうさすがにいらないか…」となれば捨てるなり、もしくは、「これは凄く役に立つから、でも、この辺りに置いておこう…」と。で、必要になったら使う…そういう感じです。

それに気づいていないと、自分とそれが同一化して、常にそこに反応することになってしまうのです。

この違いを是非、理解して頂きたいと思います。

自分が何に反応して、そして、無意識に条件反射的に行動をとっちゃっているか。

これを見失うと、何が起きても怒っちゃうとか、何が起きても落ち込んじゃうとか、何が起きても責めてしまうとか、そういうふうに、自分で造ったルールの枠組みに、自分が洗脳されて、知らないうちに自分が同じような、何が起きても同じようなパターンの反応、行動をしてしまう。

且つ、これは「原因と結果の法則」の世界に私達は生きていますので、そういう反応してしまう自分の原因が、自分に結果として返ってくる、という、ずっとネガティブループに入ってしまうという事もあるのです。

「今・ここ」に生きる、と言う事と、ここまでお伝えした事がどう関係があるか、その事を、あなたの日常生活の中で試して頂き、ご自身の内側から見出して頂ければと思います。


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● 内容:
第2回は、「新版『黎明』「第12章 地球の変容」の過去形表記の謎と解釈」(その2)です。

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