「悟り」という言葉のイメージに囚われることで、誰にでも、日々の日常生活の中に示されている「悟り体験」を見逃してしまっていることを、『VESTライトワーク塾』の塾内で頂いたご質問に回答している流れで痛感しました。
「悟り」に対する重要な理解を田久保剛のQ&A回答ビデオでご紹介します。
「悟り」という表現の定義
このビデオは「VESTライトワーク塾」内の講義ビデオに頂いた質問に対する回答ビデオです
Q.「第2回目講義で質問があります。講義ビデオに「地上人生の真意を悟り、…」というフレーズが出来てますがここで仰っている「悟る」とはどのような状態の事でしょうか。
魂の目的を正しく理解してライトワークを実践し、魂を成長させる。
その事を意識して日常生活を送っている段階で「悟っている」と、言えるでしょうか。どこか自分のイメージでは悟っている人というのは 「悩みも問題も抱えておらず全てが見通せている人」のようなイメージがあり人生の早い段階で悟るというのは非常に難しいという印象になってしまいます。
「悟りを開く」などの崇高に思えてしまう言葉なども、どうも自分とは無縁のような気もしてしまう為、田久保さんが悟りという言葉をどの様な意味で使われているかもう少し詳しく教えて頂けると幸いです。」
このご質問は、初めは、単なる「悟り」という言葉の定義、解釈の相違だけの事かと感じました。
しかし、そのことを解説しながら回答している内に、こうした疑問が生じる背景というものが見えてきました。
私たち、一人一人の、毎日の日常生活に、神を見出す、「悟り体験」「覚醒体験」はたくさんあるのに、「悟り」という、何か壮大なる幻想に囚われてしまうことで、そのような、日々の小さな「悟り」を見逃してしまう。
その小さな「悟り」の地味重ねの背後に、偉大なる真理を見出すことができる。
そんな思いの回答です。
「悟り」の真理を「悟る」
A.私が「地上人生の真意を悟り…」という表現を使っているときのこの「悟り」という言葉の意味を、おそらく、私がその「悟り」という言葉に意味を持っている定義と違う…つまり勘違いをされてしまったかなっていうのがまず一つですね。
ですから、私はこの場合は、表現してるが如く、「地上人生の真意を悟り」というのは、地上人生がまさに魂の目的を成就するための最適な次元なんだな…ということを、「感づく」というか「気付く」というか、そのことを「知る」という程度の意味で使ってる「悟り」ということであって、例えば自分の本源である「普遍意識を悟る」いわゆる「悟りを開く」境地、「悟りの境地」とか、
そういうところで使われるような、ご自身が言われたような、「悟りを開くなどの崇高に思えてしまう言葉」という意味で使ったわけではないですね。
言ってみれば、何かすごく重い機材が置いてあるこの部屋って、一体何なんだろうここは?もう邪魔でしょうがないなってトレーニングジムの例えを出しましたけども、でも最初はそれに気づかなかったけど、あ、ここは筋肉を鍛えるトレーニングジムだったのか、ということを「知る」
そういうことに最初は気づかなかったんだけど「感づいて」、そして、ああ、ここはそういうところだったんだなーってことに「気づく」というぐらいの程度の言葉で、
「ここはトレーニングだったって事を悟ったんだよ」
そんなぐらいの意味ですね。
なので、ここは単純な勘違いかなっていうふうに思います。
しかし、この「地上人生っていうのが魂を成長させる」そのような次元だったんだ、ということを悟る。
そのことを「知る」
そういうことに「気づいた」
ということと、「普遍意識、本当の自分に目醒める」という意味での「悟り」というのは全く違う意味なのか、と言ったら、私はそうとも捉えてないんですね。
例えば、これは日常生活の中でも「悟り」というものがいっぱいあるわけなんです。
私たちはどうかしても、何かこの悟りを開くと言うと山で修行したお坊さんのような方が、瞑想中に瞬時に悟りを開くような凄い体験があるような、一瞥体験とか、そういういろんな表現にあるイメージと捉えがちなのですが、
実はそういうものじゃなくて、「悟り」というもの、つまり、この場合の「悟り」は気づくという意味でもあるんですけれども、「本当の自分が垣間見える瞬間」というものは、日常のいろんな瞬間瞬間、ちょっとした、些細な所にあったりするのです。
私たちはそういう事を日常で体験しているにも関わらず、「悟り」というのは何かこの広大な意識が宇宙に拡大するような、そういう体験のことだと言う思い込みがあるから、
日常生活の中で、ちょっとした垣間見る体験と言うものスルーしてしまって、「それは悟りではないんだ」という風に認識してしまってる可能性はありますよね。
今まで、「この出来事は、これこういうことだ」っていう風に思い込んでたけど、ある時、ふとした瞬間に、「あっ、そうじゃなかったんだ」と、
たとえば嫌な状況だと思ってたけど、そうじゃなかった。とても素晴らしい状況だったっていうことに、ふと悟る、
つまり、「気づく」、そのことう、その真理を「知る」という、ちょっとした体験、経験を積み重ねていくと、そこが少しずつ、その扉が開くようにですね、日常生活で積み重ねて行く。
ちょうど昔、クイズ番組で、パネルクイズ25アタック(?)とかね、そういうのありましたけどね、あのイメージ私あるんですね。この日常生活の中で、今まで覆い隠されていたところが、パッと、真理が少し垣間見える。
そして、こちらのパネルも垣間見る。そういうことを積み重ねていくと、何かおぼろげに向こうの方に、より本質的な真理がば〜っと見えてくる。
こういうことも、その日常の日々の少しずつの「悟り」を体験していくことによって、もっと大いなる真理がその背景に見えてくる、なんていう悟りの仕方もありますよね。
だから私は、その「気付く」、ちょっとしたことに、「あっ、こういうことだったんだな」とか「あっ、ここにもちゃんと示されていたんだな」とか「これも全然自分には関係ないこと、むしろ自分にはあまり良い事と思われなかったようなことも、そうじゃなかった、
この事がちゃんと自分に必要な事を教えるという愛の表現だったんだとかですね、いろんなことで、一つ一つの悟りを積み重ねていく事によって、気がつけば実は、この大いなる自分の本質というものが見えている自分に気付く、見えていたことに、実はそこに隠されていたんだけども、知らないうちにそれが浮き彫りになってたことが見えるとか、そういう意味でも「悟り」りという言葉を使えます。
「悟り」という幻想の囚われ
そもそもこのご質問の背景にあるものは、何か、悟りというものはものすごく特別なもので、修行僧がやっとの思いで、そして突如現れる、素晴らしい体験のような、何かその壮大なる幻想というものに囚われてしまってるところから生じている可能性もあるかな…と
私たちも日常生活の中で、その大いなる真理というものに目覚めるための一つ一つの「パネル」というものを、クリアしてってるんだと。
そんなような認識も、今回のこのご質問をきっかけとして、理解をし直していただくと良いかな、という思いですね。
ですから、ご質問に戻りますと「地上人生の真意を悟り…」というものは、ご自身でお書き頂いたように、「魂の目的を正しく理解して、ライトワークを実践して、魂を成長させる場なんだな…この地上は」っていうことに気付いた、という事です。そのことを「悟った」っていうことです。
だから、そのことを意識して日常生活を送ってる段階で「悟ってる」と言える、と私は思うんですけども、ただその「悟り」というものが、何か修行僧が一気に意識を宇宙大に拡大して、神と一体となった体験のような幻想という理解で捉えていると、「いや、そんなのは悟った状態でないでしょう…」
というような気持ちが出てきてしまうという、いわゆる「悟り」という言葉に対する、定義であるとか、この言葉を使うフレーズの前提であるとか、その辺の違い故に出てくる疑問だったのかな、ということを感じました。
これはですね第7回講義に「前提と定義」というテーマのお話もありますので、そこも是非、理解の参考にしてみてください。ありがとうございました。